皆さま初めまして、クリプトラベラーと申します。
以前はXの固定ツイートに自己紹介文を書いていたのですが、Xの発信方法を大幅に変えようと思っているので、こちらで自己紹介記事を書いていきます。
そもそもの話ですが、アカウントの名前の最初に地球放浪〇〇年と書いてますが、これ、ガチの話です。
ずっと放浪して人生を生きてしている人は、ほぼ皆無なので、なかなか現実感が湧かないと思いますが、本当に事実なんです。
基本が旅人で、その延長線上に独立系市民ジャーナリストの活動が乗っかっています。
5歳から続けさせられていたエホバの証人の宗教活動に嫌気がさして、17歳の時に宗教を抜け出し、高校を中退し、日本から脱出したのが全ての始まりでした。
その後19歳の時に、船で中国へ渡り、二十歳の誕生日をチベットで迎え、ヒマラヤを超えてインドのゴアにたどり着いたことで、全てが変わりました。
ヒッピースタイルのノマド・バックパッカー暮らしに目覚めてしまったのです。
少年時代に宗教にコミットした母子家庭で育ち、徹底的に抑圧されたいじめられっ子だったため、押さえつけられていた生命力が一気に爆発したのだと思います。
それらの話は、こちらの放浪記に書いているので、興味のある方は読んでください。
旅に目覚めて以降は、何年も何年も終わることのない旅を続けてきました。
25歳の時には旅に身を捧げるという誓いを立てて、全ての所有物を処分し、バックパック一つに全生活が収まる形に仕上げました。
どこにも根を張らず、何にも属さずに全ての瞬間を生ききるという決意の表明です。
僕にとっては旅こそが人生の目的であり、自分なりの霊的な修行だったと言えるかもしれません。
この当時の僕は、本気で「路上で野タレ死ぬ」ことを人生の目標にしていました。
とにかくとことん瞬間瞬間を生き抜く、そのためには人生を賭けて全力でぶつかっていく必要があったのです。
その後に何年もの放浪と紆余曲折があり、現在はメキシコの超山奥で暮らしています。
メキシコ暮らしの話は、あまり記事にしたりツイートしたりしていないのですが、実はかなり特殊で濃い暮らしをしています。
標高2500メートルの超山奥にあるメキシコ・ネイティブ・アメリカンのザポテック族の村に土地を買い、ティピーで野外生活をしています。
一つ重要なポイントが、ザポテック族は一般的なメキシコ人ではないということです。
米国においての白人移住者とアメリカン・インディアンとの関係、あるいはオーストラリアの白人移住者とアボリジニの関係のようなものです。
文明の発達具合も、とてつもない差があります。
ここでの暮らしは、自然暮らしとか田舎暮らしとかいう言葉の範疇に収まらないほどの野生的な暮らしで、ワイルドというよりも原始的、未開の地と言った表現の方がしっくりとくるような土地です。
うちのお隣さんがいうには、2008年まで道路がなかったので、ロバに木材を積んで6時間かけて山を降りて街まで行き、砂糖とコーヒーに交換して、また6時間かけて山に登ってくると言った暮らしだったそうです。
当時は道路もなければ、電気も水道もガスもないし、政府も警察も消防署も存在していない世界。
山と共に暮らす自給自足の日々です。
2008年といえば、リーマンショックが起こり、サトシナカモトがビットコインを発明した年です。
そんな時代にロバで街まで行くような生活をしていた土地なんです。
父母、息子と嫁の一家ですが、文字が読めるのは息子のみです。
昔は布団やマットレスという存在もなかったので、地面に直接寝転んでいたそうです。
ちなみに、家には床や窓や煙突という概念はなくて、粘土を捏ねた土壁の上に木の梁をしいて藁葺き屋根を乗せた造りです。
家の中で火を焚いて食事を作る時に家中が煙だらけになるけれども、屋根の下に大きな隙間があるので、煙突要らずという仕組みです。
標高2500メートルで結構寒い上に、山風が家を通り過ぎ、布団という文化も存在していなかったので、かなり寒い日々を過ごしていたと思います。
他の国や民族ならば、その寒さを凌ぐために色々な対策を練ると思うのですが、うちの民族が選んだ手段は、我慢する、気にしないと言ったものでした。
そのような手段を選ぶことが出来たのは、冬が乾季なのでずっと晴れているために寒すぎず、夏が雨季なのでずっと曇っているために暑すぎないという年間を通して安定した気温だったことが大きいでしょう。
結果として彼らの心と体は鍛えられて、寒さも硬い床も気にならず、ありのままを楽しめる幸せな民族になりました。
この村では今では、電気も道路も通っており、1日に何本もシェアタクシーが街へと往復しています。
今では土壁と藁葺きの家を見ることは殆どなく、セメントとトタン屋根の家に置き換わり、ロバの数も減っています。
実際の話、ものすごい勢いで発展しています。
日本の高度成長期も真っ青なくらいの開発速度だと思います。
だけど、村人の根っこは2008年までロバと共に暮らしていたような感覚なので、如何に急速に開発が進んだとしても、僕たち先進国の現代人からすると発展具合に物凄いギャップがあるのも事実です。
例えば、知り合いのおじさんは僕がレインジャケットを着ているのを見て驚いていました。
この村にはポンチョタイプのレインジャケットしか存在していなくて、長袖があって前がジッパーで開くようなレインジャケットは見たことがなかったのです。
彼にレインジャケットをプレゼントした時の喜び様は、ギフトする側には嬉しい限りのものでした。
日本のお年寄りに東南アジアの写真などを見せると、日本の戦後を思い出すとかいう人がいます。
うちの村に関していうと、日本の戦後とかいう次元ではなくて、江戸時代くらいの感じなんです。
表面的には電気が来てて、道路があって、村人の20人に一人くらいがスマホを持っているような環境ですが、中身は数年前まで江戸時代に暮らしていたような人たちなのです。
当たり前ですが、この感覚のギャップは僕にとってしんどいものでもあるし、生活の物質的不便さは筆舌に尽くし難いものがあります。
だけど、それと同時に、ここでしか体験できないシンプルさは、複雑怪奇な現代社会に生まれ育った僕からすると、宝物のようなものでもあります。
この村の大多数は老後の事どころか、明日のことですら考えていませんし、貯蓄などという概念すら存在してません。
貯蓄の代わりに、雨季の前に一家全員でトウモロコシの種を植える。
それがこの土地での未来の豊かさを確保する方法です。
山の恵みを受け取って自給自足で暮らしていれば、貯蓄する必要など無いのです。
現代人が失ってしまった「何か」がこの村にあるのは間違いないですし、この村からそれが失われてしまうまでは少なくともあと100年くらいはかかることでしょう。
僕はその「何か」を求めてここに来た、、、わけではないんです。
その「何か」は最高に素晴らしいし、大好きなものなのですが、それが目的ではありません。
僕がここに住む理由は、この村で親友たちがコミュニティ暮らしをしているからなんです。
僕が彼らに出会ったのは12年前の話です。
2012年に開催された、ワールド・レインボー・ギャザリングというホピ族の知恵を発祥とした旅人たちのイベントで出会いました。
このイベントは、新月から新月までの1ヶ月間、皆でキャンプして一時的な共同体として暮らすというものです。
運営費は皆の寄付で賄い、運営は全員がボランティアとして参加することで成り立っており、そこからは一切の利益は生まれません。
また、金銭のやり取りも一切禁止されており、ギフトエコノミーという与え合うという形で成り立っている特殊な旅人社会です。
ある意味では理想的な社会の形態とも言えるかと思います。
この話題は非常に特殊で興味深い内容があるので、いつの日か記事にしてみたいとは思いますが、ここでは軽く紹介するだけにしておきます。
ワールド・レインボー・ギャザリング自体は毎年世界中で行われているのですが、この2012年のギャザリングは特別なものでした。
その理由は、マヤンカレンダーの26000年周期が切り替わる2012年12月21日のタイミングに合わせて、マヤの土地であるグアテマラとメキシコで開催されたからです。
多くの人がこのマヤンカレンダーの周期が切り替わることは、世界の変遷にとって大きな意味を持っていると考えていました。
そのような重要なタイミングで、平和と祈りの日々を過ごすのはこの星にとって重要な事だと考える旅人たちが世界中から集まってきていました。
総勢5000人以上が参加した熱い熱いイベントでした。
そして、このイベントをさらに特殊なものにしているのは、その場に集まった人々のエネルギーをレインボーギャザリングの理念を反映させた持続可能なコミュニティとして存続させようという計画でした。
土地もお金もないところから持続可能なコミュニティを作り上げるためにエネルギーを注ぐというのは並大抵のことではありませんが、5000人中の30人ほどがこのプロジェクトを立ち上げるためにコミットしました。
そのうちの一人が僕であり、今現在、隣の土地に住んでいる親友たちでした。
僕たちはコスタリカの山を寄付されて、力を合わせてコミュニティを始動させました。
数多くの旅人たちが立ち寄り、数週間から数ヶ月にわたってエネルギーを注いでコミュニティを継続させる。
数ある困難を乗り越えて、外部からの寄付金なしに参加者が食べていけるまで辿り着きました。
物質面においては完全に軌道に乗っていたと言えるでしょう。
ですが、そもそも根本的にレインボーギャザリングの理念を永続的に継続させるという発想そのものに無理があり、人的問題が多発してコミュニティ運営は断念せざるをえませんでした。
だけど、親友たちはコスタリカでの失敗にめげることなく、メキシコの山奥に自分たちなりのコミュニティを立ち上げました。
それが8年前のことです。
彼らが失敗にめげなかったように、僕もコミュニティ暮らしの夢を諦めていなかったので、3年前に彼らの土地の隣に自分の土地を買って移り住んできたというわけです。
僕は彼らのコミュニティの直接のメンバーというわけではないのですが、実質的には部族の一員と言った感じでしょうか。
10年来の親友たちと、家族同様に暮らしています。
そのような状況で、日々執筆活動に勤しんでいます。
この執筆活動というのは今の僕にとって非常に重要な位置を占めており、忙しい山暮らしの合間を縫ってできる限りの時間を注ぎたいと思っているものです。
僕が支配層の陰謀に気付いたのは2011年の福島地震の時でした。
地震が起こる数ヶ月前に、ドイツ人のヒッピー老夫婦旅人から社会の税金とお金の仕組みの話を聞いていたので、陰謀を理解する準備ができていたのだと思います。
その時はインドにいたのですが、地震の直後にネットカフェでグーグル検索を通して福島地震を調べると、地震に関する陰謀論が検索結果の上位に上がってきました。
当時はまだ言論統制が行われていなかったのか、あるいはインドから日本語検索したのが功を奏したのかは分かりませんが、それらの情報がすぐに見つかりました。
多くの人は陰謀論の話を聞くと、拒絶反応を起こしたり激しく疑ったりすると思うのですが、僕の場合は違いました。
社会から逸脱して生きてきたことが功を奏したのかも知れません。
僕にとってそれらの情報は、ずっと探していたパズルの一片のようなものでした。
今までに経験したことや理解してきたことと見事に合致していたのです。
それ以降は、当時では数少ない支配層の陰謀に関する情報を研究し続け、圧倒的支配から抜け出す方法を模索する日々になりました。
ビットコインのことを知ったのも、中央銀行の詐欺から抜け出す方法を研究していたことがきっかけです。
2011年の後半にはカリフォルニアで暮らしていたのですが、その頃にオキュパイ・ウォール・ストリート・ムーブメントという支配層に抵抗する大きなデモ活動が発生していました。
それらのイベントに参加していた人々の熱気に感化されて、「僕も支配層との戦いに人生を捧げよう」との決意に至ります。
当時はほとんど誰も支配層の陰謀に気付いていない状況であり、仮に気づいていたとしてもそれぞれの人生があり、家族や仕事など守るべきものが多すぎて支配層に対して立ち上がることのできる人は殆どいない状況でした。
そんな状況において、僕は独り身で何の責任もなく、いつでもどこにでも自由に行くことができて、多少のお金の余裕があり、恐れるものがないという立場にいました。
また、それまでに散々世界中を旅して遊び尽くしていたので、いつ死んでも悔いはない、今度は自分が世界に対して恩返しをする番だという考えも後押ししていました。
そのような決意のもとにデモ活動に参加したのですが、このような物理的な抵抗は支配層にとっては蚊に刺されるようなもので、うまい具合に懐柔されて数ヶ月後には活動家の勢いは立ち消えてしまいました。
僕は大きく落胆すると同時に、その経験からこう考えました。
「社会の中で物理的に抵抗しても簡単に潰されてしまう、別の社会を作り出すことが支配層の陰謀から抜け出す手段になる」
この考えが、カリフォルニア定住を諦めさせて、グアテマラへ向かいコミュニティを立ち上げるという考えに繋がりました。
コミュニティ・プロジェクトが失敗して以降は、支配層と戦う別の方法を模索して、暗号通貨とブロックチェーンに希望を見出していました。
その流れで世界の権力構造を今までよりもさらに深く調べるという行為に繋がり、執筆による情報発信へと繋がります。
自分では気付いていなかったのですが、僕は文字を通して表現する才能があるらしく、自分の興味ある事柄をツイートしていくうちに見る見る間にフォロワー数が増えていき、僕の発信する情報がきっかけで支配層の陰謀に気付いた、ワクチンを打たずに済んだ、と言った意見を沢山いただきました。
支配層に抵抗するという人生を賭けた目的が実を結び始めたのです。
今では執筆こそが僕が最も世界に貢献できる方法だと考えて、情報発信に精を出しています。
自分にどれほどのことが出来るのかは分かりませんが、コツコツと地道にやっていくつもりです。
フォロー、共有、イイね、コメント、サブスクや銀の購入などで応援してもらえると嬉しい限りです。
ホームページから僕のオンラインでの各種活動を見ることが出来るので、そちらもよろしくお願いします。