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納得と批判
岐阜でのパーティーは、素晴らしい自然があり、最先端DJの音楽を高音質スピーカーで聴くことができ、楽しかったのだが、いまいちパッとしない感覚を残していた。
やはり、本場のゴアのパーティーを経験してしまった後には、どうしても物足りなく感じてしまうようだ。
だがその感覚は、物足りないという言葉では役不足かもしれない。
僕が感じていた感覚は、絶対に満たされることのない飢えに近いものだった。
僕が求めていた命懸けの遊びは、ゴア以外では存在し得なかったのだ。
そこには、インドという大陸の中にあるゴアという特殊な土地と、60年代から続く欧米ヒッピーの歴史があってこそ成り立つものだった。
僕は、「日本のパーティーはこんなモノなのだ」という納得と、「日本ダセェ」という徹底的な批判の間で苛まれた。
帰宅
そんな批判的な思いを胸に秘めて帰宅の途についたのだが、その批判の思いをさらに強化するような出来事が帰宅途中に起こった。
パーティーのウェブサイトを通して知り合った運転手の性格には、往路の段階ですでに疑問を持っていたのだが、パーティーで疲れ切った復路において、彼の自分勝手さが爆発していた。
僕と彼の間に特にこれといった問題が起こったわけではないが、極度に自分勝手な性格の人と車中を共にするのは、気分が良いものでは無かった。
車を持つ運転手と、その車に依存しなければ家に帰り着けない旅行者という構図が僕たちの関係性を加速させていたのだろう。
旅人の通過儀礼
インドを旅していて、地元のインド人が騙したり盗もうとしたりなどの面倒臭いことは多々あったが、旅している最中にこのような個人の性格が問題で面倒臭い状況になることは無かった。
パーティーが少し期待はずれだったことと合わさって、僕の中に日本に対する批判的な感情を植え付けることになった。
この時に始まった日本批判の感情はその後数年間続くことになる。
この手の自国に対する批判的感情は、世界を放浪する旅人たちが最初の数年間に通る通過儀礼だというのは、その後に随分経ってから知ることになる。