初めての外国体験
リマの空港では、予定通り姉が待っていた。
無事に到着したことを喜び、暖かく迎えてくれた。
当時はスマホもインターネットもなかったから、1分百円とかの国際電話を通して待ち合わせをした。
万が一なんらかのアクシデントでもあって、待ち合わせ場所に来れなかったら、どうしていたんだろうかと思う。
空港からバスに乗り、首都リマの隣町で200キロ離れた、ワンカヨという姉たちの住む街へ向かう。
僕は体が弱く繊細なたちで、車酔いや船酔いも激しい。
リマもワンカヨもアンデス山脈の中にあり、山道を通らなければならない。
激しく曲がりくねっているわけではないが、慣れていない人間は車酔いするレベル。
車酔いに半泣きになりながらも、やっとこさ姉の住む家までたどり着いた。
長い長い長〜い道のり。
どれくらいかかったのか、はっきりと覚えていないが全部で3、4日はかかったと思う。
全くなんの人生経験もない、生まれ直したばかりの僕にとって、なかなか刺激的な体験だった。
一人でペルーに向かい、無事にたどり着くことが事が出来たという事実は、生きるということに対して大きな自信をくれた。
ワンカヨの姉の家
日本からの長旅が終わり、やっとの事で姉の家に到着した。
キッチンとリビングと寝室。
ベッドは姉と共有。
姉も移り住んできたところなので、生活感はあまりない。
結婚予定の旦那は、近くに住んでいるらしい。
シャワーは水だった。
早速の文化の違いに怖気付く。
シャワーを浴びて長旅の疲れを取りたいが、ひとまず我慢。
日本では、朝からシャンプーをするような潔癖気味の多感な少年だっただけに、温かいシャワーを毎日気軽に浴びれないのは結構な苦痛だった。
こっちでは、公共のサウナに行くのが一般的で、ホットシャワーや浴槽の文化はないらしい。
文化や言葉の違いよりも、一番ダメージを受けたのが、標高の違いだ。
ワンカヨの街はアンデス山脈の中腹にあり、標高が3350メートル。
富士山の八合目が3400メートルなので、結構な標高だというのが分かると思う。
標高のせいか、朝晩の冷え込みもきつかった。
空気も薄く、最初の頃は普通に日常を過ごしているだけで息が苦しかったし、少し歩くだけで息切れしていた。
空気の薄さになれていない僕は、ある時はサウナで酸素不足で倒れそうになったり、屋外のプールに行った時は水温が低すぎて、心臓がバクバクして息切れするも、酸素が足りずにパニックになったりした。
地元の人達にとって、この標高は当たり前の日常なので気にしていないが、日本からやってきた色白の貧弱な少年には厳しい現実だった。
ワンカヨでの退屈な生活
見知らぬ街を探索することに興味を持ったが、一人で出歩いては危ないからと、外出させてもらえなかった。
今になって、世界中を旅した経験から言わせてもらうと、高校生が一人で出歩いても絶対に大丈夫と言えるのだが、姉や旦那は僕を預かっている責任を感じていたのだろう、外出には厳しかった。
なので、基本的には常に姉と二人で家に居て、たまに買い物に行くときに姉と一緒に街に行く。
その度に買ってもらっていた、チキンの丸焼きとフライドポテトが数少ない娯楽だった。
ワンカヨでの生活は、想像をはるかに超えた退屈な日々だった。
まず、スペイン語が話せないので、会話は姉か姉の旦那(ペルー人だが日本語を話す)のみ。
外出禁止だったので、姉だけが遊び相手だが、6歳離れた姉とは遊びようもなく、一人で過ごしていた。
日本で一人で過ごす時は、テレビやゲームや本があって、本屋に立ち読みに行ったり、ビデオを借りて映画を見たりできたけど、当たり前だがペルーには日本語の文化はない。
日本を飛び出して自由になったかと思ったが、実質的には姉と二人きりでの半軟禁生活が始まった。
持っていたのは、2冊の本と1冊のノートだけ。
持っていた本を何回か読み返したが、すぐに飽きて読む気もしなくなる。
姉はスペイン語を勉強して、年齢の近い現地のエホバの証人の子供たちと遊びに行けというが、興味もやる気も起こらない。
今、同じような状況に置かれても、運動したり、瞑想したり、料理したり、何かを作ったりなど、いくらでもやることが思いつくが、学校へ行くことととエホバの証人の活動しかした事のなかった当時の僕は、退屈を耐えるという事しか思いつかなかった。
長年エホバの証人の集会に参加し続けたことで、我慢には慣れていたのが、変な意味で役に立った。
つづく。。。