ホームパーティー
ペルーに着いてしばらくすると、姉に連れられて現地のペルー人のエホバの証人の集まりに遊びに行ったりした。
宗教的なものじゃなくて、ホームパーティー。
ペルーのエホバの証人たちは集まって、音楽をかけて踊っていたりした。
日本のエホバの証人の感覚では、音楽は世俗の影響が強いので聞かないほうがいいし、人前で踊るなんてもっての外という感じなので、彼らが踊っているのを見て、ちょっとしたカルチャーショックを受けた。
最初は、遠慮して端っこで見ていたんだけど、
”こんな事でもないと踊る事なんて無いんだから踊っておいたら?”
という姉の言葉に刺激されて踊ってみることにした。
学校の体育の授業で、踊らさせられたことは何度かあったが、この時は生まれて初めて自分の意思で音楽に合わせて踊った。
姿勢を低くして、膝をくねらせるツイストのような踊りだったと思う。
当時のペルーで、流行っていたものだ。
当時のペルーで、流行っていたものだ。
恥ずかしかったので10分程度で踊るのを止めたが、それでも人前で自分を表現するという恥ずかしさを乗り越えたってことが大きかった。
当時は、自分が人生で踊ったりするなんて想像もできなかった。
同年代の友人
このパーティーで、姉の紹介により同年代の男の子二人と知り合う。
もしかしたら姉は、彼らに僕と遊ぶように頼んでいたのかもしれない。
もちろん言葉は通じないが、身振り手振りでなんとかコミュニケーションは取れる。
ペルー人の同年代の子は、日本の同級生と比べても、素朴で純粋で温かく、人懐っこいように感じた。
僕が羨ましく感じたのは、ペルーの社会ではエホバの証人であるということは特別なことではないということだ。
キリスト教文化がしっかりと根付きつつ、土着の宗教と合わさったようなキリスト教の分派が色々あったため、エホバの証人もその一派とみなされているのかも知れない。
異端色やカルト色は全くなかった。
また、ペルーのエホバの証人は、日本のエホバの証人よりも規則が遥かにゆるくて、生活に馴染んでいるようだった。
日本では、みんな白いカッターシャツに赤いネクタイと言う正装が定番だったが、こっちではシャツはもっとカラフルだったし、ネクタイも人それぞれだった。
この、同年代の友人たちとはその後も、何度か会うことがあり、少しずつ打ち解けていった。
あるときは、近所の川まで小冒険に連れて行ってくれ、その帰りにレストランで魚を食べたりした。
暗闇から脱出したばかりの僕にとって、健康的な人間関係は気持ちよかった。
ペルー式の結婚式
年末が近づくとともに、姉の結婚式の日付も近づいてきた。
姉は結婚式の準備で忙しかった。
結婚式の直前に、母と叔母が日本からやってくるので、姉はその手配もしなくてはならず、それと同時に新しい国での生活になじみ、旦那の家族とも上手くやらないといけない。
その上での僕の面倒を見つつ、未知の国での結婚式の準備なのだから、忙しくて当然だ。
結婚式の準備も整ってきた頃、母と叔母がはるばる日本からやって来た。
兄はペルーは遠すぎるからと辞退、叔父は飛行機が怖いからと辞退した。
僕にとっては、久しぶりの母との再会だが、特に以前との変わりはなかった。
母たちが来て、数日後に結婚式は始まった。
叔母の日程が限られているため、予定はきっちりと詰まっていた。
姉の結婚式は、数日かけて行われた。
多分、ペルー式なんだと思う。
多分、ペルー式なんだと思う。
日本で言うところの披露宴を、毎日違う家で行う。
それぞれの披露宴がこじんまりしていて、各家庭の自慢の料理を出してくれる。
この日のために用意した、シチメンチョウを屠殺して盛大なご馳走を作ってくれた家もあった。
家々間の移動は、軽トラの荷台に十五人くらいが、立って乗って運ばれていくというやつで、叔母は”日本ではこれは豚を運ぶのに使う方法だ”とぼやいていたが、僕は日本では経験できないワイルドな体験に喜んでいた。
数日かけた結婚式は無事に終わり、めでたく家族同士の団結も成り立った。
全く違う国の違う文化に生まれたもの同士が、結婚するのだから大したものだ。
つづく。。。