皆さんこんにちは、Qリプトラベラーです。
今日のティール・スワンの翻訳記事はなかなか強烈です。
ここで取り上げられている罠は、スピリチュアルな事柄に興味を持ち、歩みを進めている人の多くが嵌ったことがあるのではないかと思います。
かく言う僕もしっかりと罠に嵌っていました。
ここで言われているスピリチュアル・バイパスとはどんな罠なのか、早速ティールの言葉を翻訳していきます。
(翻訳ここから)
スピリチュアル・バイパスはスピリチュアル界の癌です。
(訳注:バイパス=迂回路)
それは、宗教界と非宗教界の両方で蔓延している病気です。
スピリチュアル・バイパスとは、スピリチュアルな信念を利用して、自分のつらい感情や未解決の傷、満たされていないニーズなどと、向き合ったり癒したりすることを避ける行為のことです。
それは、逃避している心理状態を意味します。
それは逃避の状態ですから、同時に抵抗感を感じている状態でもあります。
私自身は、スピリチュアル・バイパスはスピリチュアリティの影の部分だと考えています。
キリスト教、ヒンズー教、仏教、ニューエイジ、イスラム教、あるいはセルフヘルプなど、あらゆるスピリチュアルな伝統の精神的信条は、「自分自身に対して真実でない状態」で生きることを十分に正当化することができます。
それらの宗教や思想は、「悟りを開いた状態」を優先するために、自分自身の感情や存在の状態の好ましくない側面を避ける行為を正当化する言い訳を提供することができます。
特定の宗教や思想に属さない、「落ち着いて続けなさい」という言葉でさえ、実際にはスピリチュアル・バイパスを推し進めます。
スピリチュアル・バイパスの例としては、怒ることに対して極度に恐れることや、極度に孤独を好むことや、感情を麻痺させて抑圧することも含まれます。
他には、過度に寛容な思いやりを持った態度や、自他の境界線の弱さ、あるいは狭すぎる境界線、感情から逃れるために認知的な推論を用いることなどが挙げられます。
自分のネガティブな部分や影の部分についての甘い判断、スピリチュアルな事柄を過大評価し個人的人間的な事柄を過小評価すること、物理的な日常生活から逃避すること、自分自身がより高いレベルの存在に到達したかのような妄想なども含まれます。
そして私が個人的に最も嫌いな態度は、ポジティブなものに執着するあまりにそれを過度に強調し、ネガティブなものに対して強い抵抗感を抱くことです。
宗教的な修行の多くがスピリチュアル・バイパスを推し進めています。
例えば、カトリック教会での懺悔は、それをするだけで罪を洗い流し、誰かの否定的な行動を難なく変えると期待されています。
仏教においての早すぎる超越では、実際には人生のドラマに囚われたままでも、それらのドラマを超越したかのように振る舞います。
キリスト教が言うところの無条件の愛は、しばしば偽物の愛を信奉することになります。
彼らは本当は人々に対して偏見と抵抗感を抱いきつつも、人々を愛せるようになりたいと願っているだけなのに、「私は彼らを愛している」と言ったりします。
瞑想もスピリチュアル・バイパスの手段として一般的です。
瞑想はしばしば不快な感情や未解決の人生の状況を避けるために使われます。
個人的な感情や心の傷を否定している人にとっては、瞑想の実践は、人との距離を取りたいと言う離人症的な傾向を強めることがあります。
スピリチュアル・メディシンもスピリチュアル・バイパスの一種です。
(訳注:アヤワスカやペヨーテなどの中南米のシャーマン儀式で使われる薬草のことを指している。)
スピリチュアル・メディシンの使用は、感情的な問題を解決する作業において、自分の手を汚すことを避けるためのツールになります。
なぜなら現在の意識状態の苦痛に直面するよりも、変性意識状態で過ごす方が簡単だからです。
そして、スピリチュアル界隈で言われる「ポジティブ・フォーカス」ほどスピリチュアル・バイパスという癌が蔓延している場所はありません。
このような典型的な例があります。
恋愛関係が終わったばかりで、酷く悲しみに苦しんでいるAさん。
BさんはAさんが酷く悲しんでいることに対して、強烈な不快感を感じるので、Aさんが酷い悲しみを避けられるように手伝いたいと思っています。
BさんはAさんに対して、自分の現実は自分で創っているのだから、自分が今考えていることについて考えるのはやめて、代わりに「前向きになる」べきだと言います。
これは、Aさんが今考えている思考を非難し(つまり、Aさんを辱めることになります)、さらにはAさんが実際には出来ないことをするように要求しています。
このような意見は、純粋に否定的な思考から純粋に肯定的な思考にジャンプすることを要求します。
ですが、ジャンプするには波動のギャップが大きすぎるのです。
その結果として、Aさんは自分の考えを恥ずかしく思い、無力に感じます。
Aさんは、自分が今いる場所が、まるでダメな場所であるかのように感じるのです。
正真正銘にポジティブであることと、ネガティブを避けようとしてポジティブを強要することには、大きな違いがあるのです。
今の世の中では、私たちは自分の痛みを克服することにあまり寛容ではありません。
しばしば私たちは、痛みを麻痺させるような即効性のある解決策を好みます。
そして驚いたことに、スピリチュアリティそのものが、それらの事柄に対する回避戦略となっているのです。
私たちは、痛みから目を背けたり、あるいは自分自身から目を背けたりする場合には、自分自身を見捨てることになります。
私たちはそれらの事柄を避けようとすることで、それらの事柄が再び現実に現れるようにしているのです。
ただ違いは、次にそれらが現れるときには、それらの事柄はより一層大きくなっていることです。
真実の自分自身であるという真正性は、スピリチュアルな道を歩む人たちにとって最高の状態です。
実際のところ今後数年のうちに、真正性はスピリチュアルな修行の真の目標として、悟りに取って代わるものになるでしょう。
私たちは人間の人生の生々しく厄介で現実的な側面に完全に向き合って心の平和を築く前に、スピリチュアルな超越という目標を使って自分の問題を覆い隠し、それらを避けようとするかも知れません。
これらは時期尚早で誤った精神的超越と言えます。
それは、スピリチュアリティの道を歩む上での大きな落とし穴となり、ある種の職業病とも言えるものでしょう。
スピリチュアル・バイパスは、スピリチュアリティの厄介な側面というだけではありません。
実は非常に危険なものなのです。
なぜスピリチュアル・バイパスは危険なのでしょうか?
スピリチュアル・バイパスが危険なのは、肉体的な自己と高次の自己との間に大きな分断を生じさせるからです。
スピリチュアル・バイパスは、自分が本当にいる場所と、自分がいるべきだと考えている場所との間に、明確な分断を生み出します。
スピリチュアル・バイパスによって、私たちは自分に嘘をつき、自分を欺き、偽りの自分を投影して生きていくことができるようになるのです。
私たちは、自分の立ち位置を認識し、自分がどのような人間なのか認めない限りは、自分自身を真に癒すことは出来ません。
スピリチュアル・バイパスは、足を骨折したのにそれを認めず、複雑骨折にバンドエイドを貼って、とにかく前に進もうとするようなものです。
そのようなことをすれば、肉体的にどれだけの害があるか、すぐにわかるでしょう。
バンドエイドの例は、スピリチュアリティを利用して自己の感情的な真実をバイパスするときに、私たちが自分自身に与える感情的なダメージとまったく同じことです。
私たちが本当に前に進むことができるようになる前に、足が折れているという事実と向き合い、骨を固定し直し、足を癒すのに時間をかける必要があるのと同じように、私たちは自分の感情的な痛みと向き合い、それを乗り越え、癒すために時間をかける必要があるのです。
またスピリチュアル・バイパスは、人生のある側面を犠牲にすることで別の側面を高めると言う一面的なスピリチュアリティにも繋がります。
例えば、主観的な真実を無効にするために、客観的な真実を過剰評価したりします。
非物質的なものが物質的なものよりも過剰に評価されたり、5次元が高評価されて3次元が低評価されたりします。
精神的に超越することが、精神性を生きることよりも評価され、感情に執着しないことが、今感じている感情そのものよりも評価されたりします。
このような極性の一方を他方よりも重視する行動は、非常に有害な経験を生み出します。
例えば、愛し愛されたいと言う欲求を抑えて、独立した自己愛を追求することで、他者への感情的な執着を乗り越えようとするかもしれません。
ですが、それは他者から愛されたいと言う欲求を水面下に追いやるだけなので、無意識のうちに隠微で操作的な方法で行動するようになることがよくあります。
根本的に欠陥のある自己を覆い隠し防御するために、意識の高い人という自己で代用するという可能性があります。
私たちが自分自身について抱いているスピリチュアルな考え方は、私たちが自分自身について悪いと感じているという、私たちの本当の概念の真実を覆い隠すために使われたりします。
私たちは自分が十分に良い人間でないと感じています。
自分は生まれつきダメな人間だと感じているのです。
そうすると、私たちは熱心にスピリチュアルな練習をしているかもしれませんが、それらのスピリチュアルな練習は否定と防衛のために使われることがあります。
そして、スピリチュアルな練習が現実の人間的な問題を回避するために使われると、私たちのスピリチュアリティは分離されてしまいます。
私たちのスピリチュアルな生活や実践は、日常生活や全体的な機能とは切り離されたままで、統合されていません。
私たちは、まるで二重人格障害になったように感じます。
低次の自己を低次の自己として、あるいは不要な自己として考えているため、私たちは決して高次の自己の体現者になることができません。
自分自身を避けたり、苦痛を避けたりするためにスピリチュアルな原則を使っているのであれば、スピリチュアルな実践は人生に完全に浸透し、私たちを良い気分にすることはできません。
自分自身に問いかけてみてください:
・スピリチュアルな超越者の「ペルソナ」を作ることで、自分に欠陥がある、十分でない、悪い人間だと感じている事実を避けていませんか?
・自分の痛みや問題を避けるために、スピリチュアルな信念を使っていませんか?
・スピリチュアルな自分は、肉体を持って生きている自分とは違うと感じますか?
・自分の中の不安を正当化するためにスピリチュアルなものを使っていませんか?
・自分の現実の中で、存在しないと思いたいことを見ないようにするために、スピリチュアルな事柄を使っていませんか?
今、私は大胆な発言をしようとしています。
今生きている私たちのほとんどは、スピリチュアル・バイパスと闘っています。
あなたがスピリチュアル・バイパスに苦しんでいるかどうかを知る方法を知りたいですか?
・もしあなたが「自分の現実は自分で創る」と唱え、そして心配するなら、あなたはスピリチュアル・バイパスに苦しんでいます。
・無条件の愛を信奉しているのに、誰かに対して感情的な抵抗を感じるなら、あなたはスピリチュアル・バイパスに苦しんでいます。
・宇宙は慈悲深く善良であるという考えを信奉していながら、他人や世界全体に不信感を示している場合、あなたはスピリチュアル・バイパスに苦しんでいます。
・愛にあふれた優しさを信奉しながら、自分自身を責めるなら、スピリチュアル・バイパスと闘っています。
・もしあなたの中に、スピリチュアルな原則と、実際に自分が感じたり行動したりすることの間に、何らかの分裂があるとしたら、あなたはスピリチュアル・バイパスと闘っていることになります。
そして、もしあなたがスピリチュアル・バイパスと闘っているのであれば、今あなたが向き合うべきは、真実の自分自身であると言う真正性です。
私たちはスピリチュアルな本質に目覚めた肉体的存在であるだけでなく、肉体性に目覚めたスピリチュアルな存在でもあるのです。
肉体的な生活はクリーンではありません。
雑然としています。
肉体的な人生は二元性に満ちた人生です。
それは、望まれるものと望まれないものの両方を伴う経験です。
スピリチュアリティは、肉体の人生から逃げるための言い訳ではありません。
魂の存在は、自分自身の人間的側面を否定する正当な理由にはなりません。
スピリチュアルな原則は、あなたの精神の癒されていない側面や痛みを避けるための言い訳ではありません。
スピリチュアルな原則は、あなたの防衛を支える正当化のための道具ではありません。
スピリチュアル・バイパスの罠を避けるためには、自分がどう感じているか、何を望んでいて何を望んでいないか、何が好きで何が嫌いなのかを認める勇気が必要です。
私たちは、自分の立ち位置と自分がどのような人間なのかと言うことを例えそれが良くないものであったとしても積極的に認める必要があります。
スピリチュアル・バイパスという落とし穴を避けたいのであれば、自分の感情、傷、トラウマ、痛みを、健全に、思いやりをもって表現し、表面化させなければなりません。
自分の感情を抑圧するのではなく、許すように意識的に努力し、感情が湧き上がってきてもそれを裁かないようにしましょう。
私たちはしばしば、内なる痛みや苦しみに対処するために、迂回するような行動に走ります。
例えば、食べ物、飲み物、薬物、買い物、セックス、仕事への依存、他者に注意を向け、自分自身から注意をそらすことなどです。
不快感を感じていると言うことをありのままに受け入れましょう。
自分の内側を麻痺させていると、このエネルギーが長引き、他の問題が生じたり顕在化したりする温床になります。
問題の根本を突き止めましょう。
人生の旅は、必ずしも至福の旅ではありません。
完璧な至福の時でなくても、人生を間違えたわけではありません。
時には人生の道程が、床にうずくまって泣きじゃくるしかないような困難にあなたを導くこともあります。
スピリチュアル・バイパスの罠を避けるためには、学んだことを自分の人生に応用する必要があります。
スピリチュアルやセルフヘルプの情報は比較的抽象的です。
ワークショップや講演会に参加したり、本を読んだり、ヨガや瞑想のクラスに行ったりすることは、良い道具です。
しかし、道具は使わなければ意味がありません。
これらの方法から学んだことを一貫して実践し、行動してください。
毎日の生活の中に取り入れてください。
これらの考え方が抽象的で、単に知識化されたものであるならば、長期的で永続的な変化を生み出す助けにはなりません。
スピリチュアル・バイパスの罠を避けるためには、否定的な信念や否定的な感情、否定的な思考といった問題を抱えていることが、何かひどく「間違っている」あるいは機能不全に陥っているに違いないという考えを捨てる必要があります。
誰にでも、個人的な「葛藤」があります。
誰にでもです。
私たちが自分の問題や感情やネガティブさを間違っていると判断すると、突然にスピリチュアル・バイパスをする動機が生まれます。
私たちは、自分が “大丈夫でない “場所を作ってしまうのです。
私たちは善良でありたい、正しくありたいと思っていますが、その善良さや正しさは、不真面目であることによってしか達成できません。
私たちは偽りの仮面をかぶることでそれを達成しようとします。
痛みを避けることができないのは、自分自身を避けることができないからです。
あなたが避けようとするものはすべて、あなたを悩ますでしょう。
あなたがそれを避けることができないほど大きくなるまで、それは何度も何度も戻ってきます。
スピリチュアルな修行について言えることは、私たちがスピリチュアルな修行に向かうのは、自分が苦しんでいて、楽になりたいからだということです。
しかしスピリチュアルな修行を、心理的な問題と向き合うための代用品として使ってしまうことがあまりにも多いのです。
そうすると、私たちのスピリチュアルな進歩は止まってしまいます。
地図上の目的地に到達するのと同じように、まず自分がどこにいるのかを認めたくなければ、自分に嘘をついてスピリチュアリティの道を進むことはできません。
そのため、真のスピリチュアリティにはシャドーワークの実践が不可欠であり、前進したいのであれば、自分の心の傷と向き合わなければなりません。
より良い気分で人生を楽しみたいのなら、自分の痛みと向き合う勇気を持ちましょう。
本物の自分自身になる勇気を。
(翻訳ここまで)
如何でしたでしょうか?
ご自身に当てはまる部分などが見つかったかも知れません。
文中に出てきた、「愛し愛されたいと言う欲求を抑えて、独立した自己愛を追求することで、他者への感情的な執着を乗り越えようとする」なんてのは、まさに僕のことでしたね。
他にも瞑想を求めるあまりに、孤独を好むとかもそうです。
皆さんも何かしらあるのではないかと思います。
コメントなどで伝えてもらえると嬉しいです。
この記事の他にも数多くのティールの言葉を訳しているので、こちらのマガジンからお読みください。
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