インドの列車
インドの列車事情は、なにかと凄いという話は聞いていたので、どんなものかと思っていたが、噂に違わず『世界のカオス』を求めてやってきた僕の好奇心を十分に満足させる物だった。
駅にいるのは何も旅行者だけではない。
駅周辺で働いている人もいれば、旅行者を標的にした物乞いや盗人たちもうろついている。
駅にいるのは何も人間ばかりではない。
インドならではの牛はもちろんのこと、野良犬、野良猫、野良猿、鳩、カラスなど駅という場所を利用したい全ての存在に平等に開かれていた。
インドという国の心の広さが、こういうところに現れている。
駅だけで完全に一つの文化圏を形成しており、町あるいは村といっても過言ではないかもしれない。
駅の外の駐車場エリアには、木の枝を集めて料理をしている乞食家族がいる。
残飯を漁るガリガリの野良犬と、凶暴なカラスたちとの命のせめぎ合いがあり、猿と盗人は隙あらば旅行者から奪ってやろうと目を見張っている。
僕は自分の事を小汚い貧乏なバックパッカーだと認識していたが、この駅構内においては上位1%の富裕層に値する。
それは、すなわち泥棒の標的になるということを意味しており、気を張っていなければ、やられてしまうということは十分に理解していた。
僕は適度な緊張感を持ちながらも、恐怖心は克服していて、目の前に広がるカオスの海に自らを投げ入れることに興奮していた。
幸いなことに、僕のバックパックは小さめで荷物の量も少ないので、常に肩にかけていても気になるような重さではなかった。
肩に担いでいる限りは、盗まれる心配は圧倒的に少ない。
荷物を足元に下ろす時は股の間に挟んで、常にかばんの一部が体に触れているようにした。
この適度な緊張感が、冒険心を刺激して嬉しくなる。
列車の旅
中国を列車で3日間旅した時に、柔らかい席に座り続けてお尻を擦りむいたことがあるので、今回は間違いないように寝台車を取った。
ほとんどの外国人旅行者は、2等寝台を予約するというので、僕も同じものにした。
出発前の準備として、お菓子と水を多めに買っておいた。
移動中にも売り子が来るので、大量に買う必要は無いが、万が一に備えておいた。
インドなので、何が起こってもおかしくない。
列車は既に駅構内に待機している。
自分の座席/ベッドは簡単に見つかった。
3段ベッドの最上段だ。
真ん中の段は昼間は折りたたみ、自分は寝ることはできない。
下の段は、昼間は他の乗客と共有しなければならないなどということがあり、友人の皆が最上段を取れと勧めてくれていた。
上段は昼も夜も寝ころびつづけて、自分の場所を確保できる。
自分のバックパックもベッドに置いておけば盗まれる心配は、だいぶん少なくなるだろう。
列車がギシギシと怪しくも重い音を立てて動き出した。
重量感のある音が、旅の雰囲気を盛り上げてくれる。
列車が出発したのは夜。
昼過ぎには『バラナシ』に着くはずだ。
ベッドの寝心地はそれなりに柔らかく、それなりに清潔で、なかなか悪くない。
激しい寝返りは打つことはできないが、一人で一晩過ごす分には問題はないだろう。
用意していた薄い毛布に包まり、眠りについた。
朝
朝になり、明るくなって来て、人々が起き出している気配を感じる。
だが、もう少し横になっていたい。
そんな思いとは裏腹に、足を揺すぶられて起こされた。
一体何事だ?と飛び起きたら、チャイ売りの少年が「チャイは、いらないか?」と聞いて来た。
さすがインド、プライバシーやら遠慮やら気遣いやら、という細やかな心遣いは通用しない。
少年はチャイを売りたい、だから僕を起こした。
以上。
僕は、不本意に起こされたことに腹が立ったが、少年の純真さに免じて許すことにし、寝起きのチャイを用意してもらった。
値段は、もちろんボッタクリの値段、高すぎると文句を言って半額にしてもらった。
インドの列車で目覚め、寝起きに出来立ての熱いチャイを飲んで1日を始めるなど、旅人冥利に尽きる。
無理やり起こしてくれた少年に感謝して1日が始まった。