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個人個人の境界線とワンネスの考え方は矛盾するか? ティール・スワンの言葉

 

皆さんこんにちは、Qリプトラベラーです。

 

 

前回の記事では、エンメシュメント・トラウマについて書きましたが、今回は、その記事で参照先とされていた境界線についての記事です。

 

 

 

この回もなかなかの神回で、人の心と感情の奥深くを探索するには避けては通れない内容です。

この概念を理解することで、自分の感情のパターンや、誰かの不可思議な行動に対して理解が深まるかもしれません。

 

 

今回の記事中では、ティールの宇宙に対する概念などで受け入れ難い部分もあるかもしれません。

もし、この記事中の一部分が受け入れ難いと感じるならば、受け入れやすい部分だけ受け入れて、この記事の内容を参考にしていただければと思います。

全てを受け入れずとも、役に立つないようになっていると思います。

 

 

それでは早速翻訳していきます。

 

 

(翻訳ここから)

 

 

今日は、これまでに何度も何度も質問されて来たことにお答えいたします。

境界線とは何なのか?

どうすれば健康的な境界線を引くことができるのか?

この宇宙のすべてが一つであるというワンネスの考え方と、境界線という考え方をどのように擦り合わせれば良いのか?

 

 

「自分」と「自分以外」という「自他」の感覚を持つことは、人間としてこの物理的次元に生きていく上で、避けて通ることは出来ないものです。

 

なぜなら、私たちが物理的次元に生まれてくる理由の一つは、私たち個人個人の経験が、宇宙の拡大にとって必要なものだからです。

 

 

訳注:

個人の集合体である全宇宙は、個人個人がそれぞれの人生を体験することで、宇宙全体としての体験の総量が増すので、個人個人が人生を経験するということは、宇宙自身が拡大していっていることと同義だという考え方。

ちなみにここでは便宜上に個人と言っているが、人に限った話ではなく、全宇宙の全存在についての話である。

ティールは、宇宙自身=神自身が意思を持った存在で、宇宙自身を分割して、個別意識としても存在するようになることで、宇宙自身を再体験し、宇宙自身が「自分は一体何者なのか?」という問いに答えようとしていると考えている。

 

 

そのようなわけで、私たちは自分自身と、自分以外のものとの間に違いを感じるのです。

 

 

この一個人としての視点は、私たちをそれ以外の全てから分け隔てる、ある種の境界線ということができます。

 

 

私たちは、カウンセラーや心理学者から、健全な境界を築くことが私たちの精神的健康にとって極めて重要であると、何度も何度も聞かされてきました。

ですが、境界線とはいったい何なのでしょうか?

 

 

境界線とは、自分自身と自分以外その他すべての世界との関係を示すガイドラインです。

 

 

それは、信念、意見、態度、過去の経験、社会的学習などが混ざり合って作られた行動ルールのことです。

それらの境界線は、個人同士の間に双方向に作用します。

 

 

個人の境界線は、好き嫌いや、個人的に正しいこと、または個人的に間違っていることを具体的に示すことによって、各個人を定義するのに役立ちます。

これらのことを定義することで、自分が他人からどのように扱われたくて、どのように扱われたくないかを知ることができます。

 

 

ここでは、あなたが不健康な境界線を持っている場合に現れてくる、いくつかの兆候を紹介します。

 

・肯定するつもりで否定したり、否定するつもりで肯定したりする

・断ったときに罪悪感を感じる

・他人を喜ばせるために、自分の誠実さや価値観に反する行動をする

・言いたいことがあるのに発言しない

・自分が受け入れられたいがために、他人の信念や考えを受け入れる

・自分を虐げている人に対して軽蔑を示さない

・望まないのにも関わらず、身体を触らせたり、セックスを受け入れたりする

・他人の目先の欲求や必要に合わせるために、自分がやっていることを中断されたり、気を削がれたりすることを許す

・役に立つと思われたいからと、過剰に与える

・誰かの問題や困難に過度に関与する

・自分が不快になるようなことを、自分に、あるいは自分の目の前で言われることを許す

・人間関係において、自分の感情的な必要をはっきりと伝えない

 

 

ここでの最大の問題は、他人が私たちの境界を侵すことではなく、私たちが自分自身の境界を侵すことです。

 

誰かに境界を侵させることで、私たちは自分自身の境界を侵すことになります。

これは自分自身を裏切ることと同等です。

 

 

もしあなたが自分の個人的な境界線を守らないなら、あなたは自分自身を侵害し、自分自身を放棄し、自己嫌悪に支配されることを許すということと同義なのです。

 

 

境界線の侵害というと、多くの人は、誰かが誰かをレイプするような、相手に対する侵入による侵害を思い浮かべるかもしれません。

しかし逆に、距離を取るという侵害もあります。

これらは時に、最も痛みを伴うものです。

 

 

距離を置くという形での境界線の侵害は、あなたが誰かと繋がっているときに、相手が引き下がる、つまり、あなたから離れることで、境界線を越えてしまうときに起こります。

これは感情的にあなたを傷つけますので、感情的な境界線の侵害となります。

 

 

もし私たちが、自分の境界線の定義を、善悪の概念や、欲しいか欲しくないかなどの欲求、あるいは誰かが考える健全な境界線という考え方などによって決めるとしたら、境界線というものは非常に複雑になってしまうでしょう。

 

 

ですが結局のところ境界線とは、肉体的な境界、感情的な境界、心理的な境界、霊的な境界、そして性的な境界に分類できます

 

 

そこで、境界線の概念を単純化して、あなたにとって非常にわかりやすいものにしようと思います。

あなたの境界線は、あなたの感情によって定義されます。

 

 

自分の境界線が侵害されたかどうかは、それがどんな種類の境界線であっても、必ず自分の感情が教えてくれます。

 

 

例えば、誰かがあなたを傷つけるようなことを言ったとしたら、それは感情的な境界を越えたことを意味し、あなたは傷ついたと感じるはずです。

または、誰かにパーティに誘われ、行きたくないと思っていたのに、つい行ってしまい、嫌な気分になるのも、自分の境界を侵したということです。

 

 

感情を観察すれば、自分の境界線がどこにあるかがわかるのです。

なので、毎日毎日、自分の気持ちと向き合あい続けることがとても重要なのです。

 

 

境界線とは、あなたの個人的な幸福、個人的な誠実さ、個人的な欲望、個人的なニーズ、そして最も重要な個人的な真実を、

自分以外のすべての宇宙から分離することで、独自に定義するための想像上の線と考えることができます。

 

 

自分自身が感じていることに耳を傾けず、それを尊重しない人は、自分自身の境界線を侵しています。

他人が感じていることに耳を傾けず、それを尊重しない人は、他人の境界線を侵しているのです。

それほどに単純な話なのです。

 

 

だから、自分が本当は物事をどう感じているかに耳を傾け、それらを常に感じようとすることを練習してください。

自分の感覚や感情が何を語っているのかに耳を傾けていてください。

なぜなら、感覚や感情こそが、あなたの境界線を示しているからです。

 

 

もしあなたが意義のある人生を生きたいと願い、人生経験を楽しみ、自分自身でありたいと考えるならば、自分自身の感情に注意を向けて鑑みることはとても重要です。

 

 

私たちにとって、自分が本当は何者で、何を望んでいるのかを知ることはとても重要です。

それと同時に、「自分が何者で何を望んでいるのか他人が知っている」ということを自分が知っているということも極めて重要なのです。

 

 

自分が何者で、何を望んでいるのかを恥じていると、境界線が弱くなり、常に他人から自分が何者であるかを貶められることになるのです。

 

 

個人の真実、つまり境界線は、あなた以外の誰にも定義できません。

親も恋人も友人も誰も、あなたの境界線を定義することはできないのです。

なぜなら、誰もあなたの体になりきって、あなたのために感じることはできないからです。

 

 

しかし、これは非常に多くの人々が行おうとすることです。

これは社会が行おうとし、あなたの家族が行おうとし、あなたの友人が行おうとしています。

彼らは、あなたの境界線がどうあるべきで、どうあるべきでないかを教えようとするのです。

 

 

実は、自分の境界線の健全性や弱さは、あなたを取り巻く世界、特にあなたが育った世界と大きく関係しています。

私たちは子供の頃に、家族や社会に溶け込むために、生存戦略として、周囲に受け入れられる人格、つまり偽りの自己を身につける必要がありました

それは、本当の意味で自己を見失い、恥をかかされたことと同義です。

私たちは、自分がそうあるべきと考える人物を演じ、本当の自分を恥じるのです。

 

 

親に否定された私たちは、健全な境界線を持つことができませんでした。

実際、私たちは常に境界線を踏み躙っているか、あるいは境界線がないことさえあります。

 

 

よくあるパターンをご紹介しましょう。

 

 

子供が、親と一緒に時間を過ごしたいと思っていても、親はいつも働いているので一緒に時間を過ごすができず、怒りを感じ始めたとします。

親は「私が知っている他のどの親たちが子どもと過ごす時間よりも、私があなたと過ごす時間の方が長い」と言い、子どもは「恩知らずだ」との辱めを受けます。

子どもは、自分が感じている怒りは真実ではなく、自分が感じている怒りを恥じるべきであると学びます。

そのような状況では、親に対して怒ることは許されません。

そこで子どもは、怒りを表現することができず、どんな時でも「ありがとう」と言いつづける偽りの自分を作り出します。

やがて子どもは、本当の自分は、常に幸せで感謝しているのだと考えるようになります。

そして実は、心の奥底で怒りを感じていることを、決して認めることはないのです。

 

 

では、他人が自分を否定的に評価することを恐れることで、自分自身で「偽りの自分」を作り上げてしまった場合には、どうすれば良いのでしょうか?

 

 

そのような場合は、このように自分に問いかけてみてください。

 

・自分は本当のところは何を望んでいるのか、分かっているのだろうか?

・それとも、何を考え、何を信じ、どう感じるべきかを他人に教えてもらっているのか?

・本当はやりたくないことをやってしまったり、本当はノーと言いたいのにイエスと言ったり、本当はイエスと言いたいのにノーと言ったりすることはないだろうか?

・私は、自分の本当の気持ちを人に伝えるのが怖いのでしょうか?

・私は、人から否定的に思われるのが怖いのでしょうか?

 

人が境界線を設定するのは難しいのです。

 

 

私たちは、ついつい他人のニーズや気持ちを優先してしまいます。

私たちは本当のところは、自分自身を知らないのです。

私たちは、自分たちに権利があると感じていないのです。

境界線を設定することで、関係が危うくなると考えていることもあります。

私たちは、健全な境界線を持つことを学んできませんでした。

私たちの多くは子供の時に、自分が感じたことは、自分が感じたことではない、あるいは感じてはいけないことだと言われて育ちました。

ほとんどの人は、自分が見たものは、自分が見たものではないと言われてきたのです。

私たちのほとんどは、自分が欲しいと思っているものは、本当に欲しいものではない、あるいは欲しいと思ってはいけないものだと言われてきました。

私たちは、自分自身の真実が何度も何度も無効化されるような人生を送ってきました。

 

 

そのため、自分の気持ちや求めるものに逆らうようになり、そうすることで、自分自身に忠実でなくなったのです。

このような内的な自己裏切りによって、私たちは自分を信頼することをやめてしまったのです。

 

 

自己信頼とは、境界線そのものです。

境界線とは、自分自身のために存在するということです。

 

 

私たちの多くは、自分で自分を見捨てるという習慣的なパターンにとらわれています。

これが、私たちが自分を信頼できないようになってしまった本当の理由です。

 

 

人は、自分自身に対して危険を感じると、自分を信頼できなくなります。

そして、私たちが自分自身に対して不安を感じるのは、自分が気分の良くない決断をしたり、本当の自分を表現できないような行動をしてしまうという経験をしたときです。

 

 

自分が本当に感じていることを無視し、自分自身の真実を放棄するとき、私たちは本質的に自分自身を信頼できない存在になるのです。

 

 

自分を信頼する唯一の方法は、自分がどう感じているかに耳を傾ける方法を学び、自分がどう感じているかに敬意を払うことです。

なぜなら、親密さを得るためには、相手の核心に触れるために心を開かなければならないからです。

 

 

さらに悪いことに、私たちは自分自身を仮面から解放することができないでいます。

親密さとは、相手のありのままの姿を受け止め、自分のありのままの姿を受け止めてもらうことです。

この定義から、私たちが偽りの自分を維持している場合、私たちは自分自身との親密さを持たないので、他者との親密さを持つことができないことがわかりますね。

 

 

人間関係において、私たちは自分の気持ちを理解してくれる人と一緒にいたいと深く願っているのに、自分の気持ちを理解するための時間すらとれない。

私たちは、自分自身と都合の良い関係になってしまうのです。

 

 

私たちは、自分の感情や個人的な真実に耳を傾けないことで、自分が避けようとしている困難を引き起こしていることに気づいていないのです。

 

 

要するに、自分がどう感じているかを知らなければ、自分が何者で、何が好きで、何を信じて、何を望んでいるかを知ることはできないのです。

 

 

健全な境界線を持つ人は、自分を見失うことなく人間関係を築くことができるのです。

そして、自分の境界線が自分にとって曖昧であれば、他の人にとっても曖昧であることを忘れてはなりません。

 

 

では、この「境界線」という考え方は、「宇宙はすべて一つである」という考え方にどう合致するのでしょうか?

境界線という概念は、宇宙は全て一つであるという真理に逆らうように見えます。

 

 

もし私が、自分の本当の姿や、自分が本当に望んでいること、感じていることを本当に受け入れ、正直に話しているなら、

私は自分を他人や宇宙の源から切り離した存在として見るのではなく、宇宙の源の個別の表現である自分という存在を受け入れていることになります。

 

 

だから、個人の境界線はスピリチュアルな真実である宇宙は全て一つであると言う考え方と矛盾するものではありません。

私たちは単に、抵抗を連想させる「境界線」という言葉を使っているだけなのです。

 

 

ある意味では、境界を持つためには、自分とそれ以外の世界を区別する必要があります。

そして、自分の感情を定義する必要があります。

 

 

しかしこれは、あなたが三次元世界に人間として生まれてきたという段階で、必然的に行われていることです。

この視点は、宇宙という存在が自己認識への旅を拡大するのに役立つからです。

 

 

訳注:

全宇宙=神、という存在が「全て」である自分自身を分割して、個々の人間として存在することで、それぞれの個性を通して自分(全宇宙)を体験することで、宇宙自身としての自己認識を拡大するという、ティールの考える宇宙の仕組み。

 

 

 

ですから私たちは皆、すでに自己と他者というものを経験しているのです。

 

 

その結果として、私たちはすべてが1つであり、一個人の幸福に役立つものは、他のすべての存在にも役立つということを発見するのです。

 

しかし、ここで本当に重要なことがあります。

境界線とは、「望んでいないことに抵抗すること」ではありません。

それは痛みを生み出す不健康な境界線です。

 

 

外側の世界があなたを害する可能性に対して抵抗を示すことは、境界線を持たずに外側の世界に不法侵入させ続けることと同じくらい不健康なことです。

親密さに対して壁を作る人は、健全な境界線を示しているのではなく、世界に対して抵抗しているのです。

 

 

不健全な境界線は、世界に逆らって、他人がどう振る舞っていいか、どう振る舞ってはいけないかを指示するようになります。

 

 

ですが結局のところ、私たちは、相手がどのように振る舞い、何をし、何をしないかをコントロールすることはできないのです。

私たちがコントロールできるのは、自分が何をし、何をしないか、そして他人の手によって自分が何を経験することを許すかだけです。

 

 

健全な境界線は、私たちが慣れ親しんでいるフェンスやルールなどの境界線とは異なり、本質的に抵抗がなく、したがって、宇宙全てが一つであるという、ワンネスの概念と調和しています。

 

 

健康的な境界線は、他の人のものをコントロールすることではありません。

健全な境界線とは、あなた自身が幸福感や願望、個人的な真実を定義し、それに従うことです。

それは、自己認識、誠実さ、自己愛の状態です。

 

 

世界に逆らっていては、これらのものは手に入りませんし、世界に自分が何者で、何を望み、どう感じるかを決めさせていては、これらのものは手に入りません。

 

 

健全な自己認識を持つことは、あなただけでなく、宇宙にも貢献します。

そして最終的には、あなたの幸せは他の人の幸せでもあるのです。

 

 

もしあなたが、本当はやりたくないことに「イエス」と答えてしまって嫌な思いをしているのなら、自分の境界線をもう一度見極めてみるべき時です。

もし、あなたの人生の中で、人々があなたに嫌な思いをさせているとしたら、それは、あなたの境界線を再評価する時です。

 

 

あなたの人生で、今一番不幸だと思うことを10個挙げてください。

他の人があなたの周りでしてほしくないこと、あなたのためにしてほしいこと、あなたに言ってほしいことを10個挙げてみてください。

あなたの人生に関わる人々を一人ずつリストアップし、その人たちの周りであなたがどのように感じているかを書き出すのも効果的でしょう。

 

 

そして、リストのすべての項目に関連して、 “私はどのように自分自身の境界を侵害し、彼らが私の境界を侵害させるのですか?” と自問します。

“私はこのことについてどう感じているのか、私は何を本当に望んでいるのか?”

 

 

例えば、配偶者が仕事から帰った後、テレビを見ていて、私を無視するような場合です。

そうすると、私は拒絶され、愛されていないと感じ、孤独の空洞が私の中に湧き上がってくるような気がします。

このようなことをすることで、彼は感情的な境界を犯しているのです。

だから、私は自分の気持ちを手紙に書いて伝えようと思っています。

 

 

境界線の侵害を発見したら、自分がどう感じているかに基づいて、何らかの変化を起こすことが肝要です。

具体的な行動を決めましょう。

この場合、自己表現が最も重要です。

 

 

例えば、誰かに何かを頼まれたら、次は断ろうと決めることができます。

電話をかけて、約束したことを撤回するかもしれません。

例えば、「タバコをやめようとする私の努力を妨げたり、何度も失敗したことを思い出させたりしないでください」と、次に傷つけられたときに何か言って、境界線を設定することもできます。

あるいは、”今度こそ成功させるために、ぜひあなたの力を貸してください “など、前向きな要求を主張することで、境界線を設定することもできるでしょう。

 

 

時間が経てば経つほど、境界線は更新されることを忘れないでください。

常に同じである必要はありません。

新しい恋愛を始めたり、子供を産んだりすると、他の人に与えられる時間が限られてくるかもしれません。

 

 

人生の中で自分の境界線を再定義することは、自分自身に忠実であるために重要なことです。

そして、境界線は、あなたが人生で経験する変化の中で、自分自身に忠実であるために必要なものなのです。

 

 

私たちは皆、境界線に関しても、お互いのリハビリを手助けすることができます。

私たちは、相手がどう感じているかを感じ、私たちと一緒にどう感じているかを認める許可を与えることによって、これを行うことができます。

 

 

私たちは、知らず知らずのうちに他人の境界線を侵しています。

なぜなら、多くの人が、私たちの周りで自己主張したり、私たちに自分の欲求や感情を表現したりすることに問題があるからです。

 

 

人が健全な境界線を築くのを助けるのはとても簡単です。

ただ、愛情を失うことや反対されることを恐れずに、相手が本当に本当にどう感じているのか、正直に話してくれるように頼む習慣を身につけましょう。

そうすることで、あなたは相手に自分らしく、自分自身に忠実であることを許可することになるのです。

そうすることで、相手もあなたも、心を痛めることが少なくなります。

 

 

幸せな人生を送り、自分自身のために正しい選択をしたいのであれば、自分の気持ちを知り、自分の気持ちを認め、自分の気持ちを表現することが必要です。

 

 

境界を築くことは、本当の自分を見つけるための重要な要素です。

したがって、スピリチュアルな修行や人生の成功に欠かせない要素です。

 

 

それをするために、他人に抵抗する必要はありません。

その代わりに、いつでも自分自身の真実を表現することを完全に許可する必要があります。

 

 

良い週末を。

 

 

(翻訳ここまで)

 

 

いかがでしたでしょうか?

個人の境界線という考え方を再認識する良いきっかけになったかと思います。

 

 

僕は境界線というものを意識したことはなかったのですが、ティールの言葉を知って改めて考えてみると、他人の境界を侵すことはあまりないですが、他人に自分の境界を侵させることが多々あることに気づきました。

自分のゆとりの表現として他者の侵害を受け入れていたのですが、総合的に観てみると、結果としては誰にとっても損でしかないなと思い至りました。

まずは自分自身ではっきりと理解しないと始まらないので、自分の境界線を定義づけるように日々自分の感情を観察しています。

 

 

次回は、ティール・スワンの教えの基礎になるフラグメンテーションという考え方についてです。

 

 

 

 

 

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