西成での文化人生活の話15(自叙伝060)

西成での文化人生活の話15(放浪記060)

西成の治安

 
 
 
大阪市西成区のドヤ街での暮らしは早くも一年半が経とうとしていた。
 
 
 
この街は面白いほど治安が悪くて、パンク少年の僕はこの街の治安の悪さと言うスリルを楽しんでいた。
 
 
 
ツタヤのバイトが終わるのが夜中の2時、そこからバイト仲間と牛丼を食べ終わり、家に帰るのが3時とか4時。
 
そんな真夜中に敢えてドヤ街の中心地のあいりん地区を自転車で駆け抜けたりしていた。
 
 
 
アーケードの屋根のついた商店街は浮浪者たちの寝床になっており、その日の宿にありつけなかったホームレスが屋根の下で雨風をしのいでいる。
 
昼間の公園にはシャブ中のオヤジや、いかついヤクザやシンナー中毒で顔面の崩壊したチンピラなどがいた。
 
 
 
怖いもの見たさというか、好奇心というか、ロールプレイング・ゲーム的な冒険心から、よく自転車で危険地帯を徘徊していた。
 
 
 
チンピラやヤクザは西成区だけに留まらず、僕が働いていた小さなビデオ屋の常連客でもあった。
 
顔面崩壊のチンピラはわめき散らしながらヤクザ物のビデオ映画シリーズを借りていくのが常で、いかついヤクザは俺俺自慢をしながら説教を垂れるのが常だった。
 
 
 
僕はチンピラもヤクザも大嫌いだったけど、変なスリルは面白いので好きだった。
 
 
 
 
 
 

二十歳

 
 
 
夏が近づき、二十歳の誕生日があと数ヶ月に迫っていた。
 
 
 
誰しもがそうだと思うが、19歳から20歳への変化の節目は、ものすごく大きな意味を持つ。
 
 
 
僕の場合は、大好きな詩人の濱田魚武さんの
 
”何か大きなことを人生で成し遂げたいなら、二十歳になる前に行動を起こせ”
 
という言葉が大きく影響していた。
 
 
 
僕は17歳の時に気合を入れて宗教と高校を辞めたので、中途半端な人生を生きる気はサラサラ無かった。
 
まだ十代のうちに何か行動を起こす事で、一皮向けて自分らしい人生がいきられるんじゃ無いかと期待していた。
 
 
 
この言葉のお陰で、二十歳になる前にインドへの長期間の旅に出ることを決意した。
 
この決定は、僕に大きなエネルギーをくれた。
 
 
 
身近な将来の目標が決まった事で、今まで以上に活力に満ち、好奇心とインスピレーションが満ち満ちていた。
 
 
 
ツタヤのバイトを始めた頃は、映画関係かお笑い関係の仕事をしたいと思っていたが、トータスの音楽に出会った頃からミュージシャンとして生きていくことに興味が移っていた。
 
インドへの長期旅行をした後には、実家に住んで生活費を節約しながら音楽制作に没頭したいと思っていた。
 
都会での一人暮らしの経験と、バックパッカーの経験を音楽として昇華させたかった。
 
 
 
 
 
 

ツタヤバイト最後の日々

 
 
 
バイトを辞める日が数ヶ月後に迫ってきていることを自覚することで、今ほど映画を観まくって音楽を集めることのできるチャンスはなかなか無いことを自覚した。
 
 
 
僕はさらなる勢いで映画を見て、音楽をミニディスクに録音していった。
 
 
 
この一年半の一人暮らしの間に、今までに観た映画の総数が2000本を超え、音楽アルバムをミニディスクに録音した総数は600枚に上った。
 
一人暮らし以前に観ていた映画もあるが、一人暮らし中に1日平均5時間以上を映画に費やしていた計算になる。
 
ミニディスクも1日1枚以上の勢いで録音していたのだから大したものだ。
 
 
 
当時はYouTubeなどの無い時代で、こんなに大量の質の良い映画を見て、こんなに大量の質の良い音楽を手に入れるのは至難の技だった。
 
ツタヤでバイトし始めた当初の映画を見まくって音楽を聴きまくるという目的を見事に達成して、すごく満足していた。
 
 
 
かなり純粋にバイトと映画と音楽と読書の日々だった。
 
バイト後に牛丼に行く以外は、バイト友達で歳の近いTくんの家に遊びに行くか、たまにタイ旅行に一緒に行ったA君とクラブに行くくらいで、社交的なことなど何もなく、ガールフレンドなども論外だった。
 
 
 
よくもまあ、あそこまで純粋に文化的なことだけに集中できたもんだと思うが、10代のエネルギーとはそういう物なのだろう。
 
 
 
 
 
 
つづく。。。
 

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