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巡礼の旅を終えて:ヴィパッサナー瞑想は如何にして人々を「苦しみ」から解き放つのか?

 

皆さんこんにちは、メキシコの山奥で平和に暮らすQリプトラベラーです。

 

つい先日に「巡礼の旅」と称して、家から700キロ離れた瞑想センターまでスクーターでのキャンプ旅を敢行していました。

 

 

 

僕は旅が大好きで、過去に数年間の自転車の旅とかをしているので、「バイクでの3週間の旅なんて大したことない、近所に買い物に行くことの延長線だ」などと軽い気持ちで出発しましたが、、、

いやはや、いやはや、ナメてましたね。

 

 

スクーターでのキャンプ旅

 

 

最初は調子良かったんです。

 

 

 

だけど、👆の2日目にエアマットの使い方を間違えて、空気が途中で抜けていき、冷たく硬い地面で眠ることになり持病の腰痛が発症。

 

さらには、風を受けてバイクで走っていることで気づかなかったんだけど、激しい直射日光に照らされながら熱風を浴び続けたことで、脱水症状と日射病になって、極度の寒さに震えながら高熱を発症。

 

 

 

👆の倒れ込んだ際に、無茶してビーチのオフロードを走ったせいで、街乗り用に作られたおしゃれなスクーターは、砂つぶに対処できずフィルターを詰まらせて故障し始める。

 

 

 

ツイートはしてないんだけど、瞑想コースに出発する直前の靴紐を結んでいる際に変に力が入ってしまって、少しマシになっていた腰痛がぎっくり腰のような感じで歩けないほどの痛みに変化。

ホテルから瞑想センターまでの30分ほどの距離を走るのですら10分おきくらいに休憩を挟まないと腰が痛くてバイクで走れないほど。

必死の思いで瞑想センターに辿り着いたんだけど、腰が痛すぎて瞑想姿勢になることができず、椅子に座って瞑想することになったり。

 

 

コロナパニック

 

やっと始まった瞑想コースでは、コロナパニックが起こって、沈黙の瞑想なのに集団討論が始まったり。

 

 

 

コロナテストを拒否した僕は、個室に隔離されて瞑想するはめになったり。

 

 

 

瞑想後の帰宅旅では、乾季のはずなのに大雨に降られて全身びしょ濡れで風邪をひきそうになったり。

 

大雨から逃れて辿り着いたホテルが極度に酷かったり。

 

 

 

街で元飼い犬に再開したら病気が一層悪化していたり。

 

 

などなど、などなど。

 


さらには追記として、帰宅した1週間後にバイクが完全に壊れてしまいました。

どうやら街乗り用のスクーターに二人乗りして、キャンプ道具や食料を積み込んで、何時間も何日もオフロードや山道を走り抜けると言うのは無理があったようです。

積載荷重が150キロのところを170から180キロくらい積み込んで走ってました。

バイクを修理してくれている友人曰く、壊れて当然とのことです。

 

 

宇宙からの試練

 


結局のところ、ちょっとしたバイク旅行なんて話では収まらず、困難が次から次へと襲ってくる、まさに宇宙から試練を与えられているかのような「巡礼の旅」そのものになってしまいました。

 

「巡礼の旅」なんて大袈裟な単語を軽々しく使うもんではないですね。

大きなチャレンジと大きな変貌を期待しての「巡礼の旅」だったんだけど、それ相当のものを現実化させてしまったようです。

「巡礼の旅」らしく、物質的、肉体的には相当な犠牲を支払いましたが、精神的、霊的には非常に多くのものを得ることが出来ました。

「巡礼の旅」に出て本当に良かったと心から思っています。

 

 


「巡礼の旅」としてはスクーターでのキャンプ旅が重要な出来事なんだけど、それも10日間の沈黙瞑想があってのこと。

瞑想の話をするとちょっと内容が深くなりすぎてツイッターでは書きづらいので、こちらのブログ記事で話してみようかと思っています。

 

 

瞑想の話

 

今回参加したのはヴィパッサナー瞑想というタイプの瞑想法の10日間集中コースです。

 

ヴィパッサナー瞑想では基本的に一つのことしかしません。

「全身の感覚を隈なく観察する」、ただそれだけです。

そのための技術を瞑想センターで学びます。

 

 

ヴィパッサナー瞑想の歴史 

 

これは、ブッダことゴータマ・シッダールタが発明/発見した瞑想法で、この瞑想法を練習すれば誰でも苦しみから解放されることができるということが最大の特徴の瞑想法です。

「ついに誰もが苦しみから解放されて、悟りに至ることのできる瞑想法を発明した。皆に伝えなくては!」となったブッダが周りの修行者や一般市民たちに教えたことがそもそもの始まりです。

 

その瞑想法が実際に人々を苦しみから解放するという事実と、ブッダの教え方が上手いこととが合わさって、その瞑想法は瞬く間にインド中に広まって行きました。

 

だけど、ブッダの死後は言葉と理論だけが広まっていき、数百年経った頃にはその瞑想法の本質は失われてしまい、形式化された「仏教」が後に残されました。

「仏教」は「仏教」として、その後も進化発展していき、アジア各地へ広まっていき、現代では西洋にも広まっています。

 

 

失われていた技術

 

ブッダの発明した本来の瞑想法という「技術」は時の彼方に消えていったかと思われましたが、実はその瞑想法の技術はミャンマーに残されていたのです。

ミャンマーでは人知れず2500年もの間、師匠から弟子へと実際の体験を通して、何も足さず何も引かずブッダの当時からの教えと全く同じものが体験として伝えられてきました。

 


1970年代には、この瞑想法はミャンマー軍事政権下にあり、国外へ伝わることは非常に難しい状態でしたが、そこに現れたのがインド系ミャンマー人のゴエンカ氏です。

彼は大金持ちの商売人家系の出身で、インド系ということもあり、軍事政権下にあってもパスポートを作り外国へと行くことができました。

その彼が紆余曲折を経てその瞑想法を学び、インドへと持ち出したのが、近代のヴィパッサナー瞑想の歴史の突起点でした。

 

ミャンマー内で伝えられていた2500年の間は、小さな範囲で着実に伝えられていましたが、ゴエンカ氏がインドへと持ち出したことで爆発的に広まっていきました。

ミャンマーのヴィパッサナー修行者たちの間では、「ブッダの死後2500年後に再びヴィパッサナーが拡まる」という予言があったそうですが、それがゴエンカ氏によって実現されたようです。

 

現在では世界中の370ほどの場所でヴィパッサナー瞑想を学ぶことができるようになっています。

50年前にはミャンマーの1箇所だけだったので、ものすごい普及率です。

 

 

効果の程は?

 

長々と歴史の話をしましたが、実際のところ歴史の話は大して重要ではないんです。

この話の本質は、この瞑想法が実際に効果があるということなんです。

もちろん、すべての瞑想法には何らかの効果があり、それぞれに素晴らしいと思いますが、この瞑想法の特徴は実際に苦しみから「根本的」に解放されることにあります。

その理由は苦しみの根本原因に働きかけるからです。

 

では、苦しみの根本原因とは何なんでしょうか?

常人にはなかなか分かるものではないですが、それを発見したのが、瞑想の達人ブッダです。

ブッダはひたすら深く瞑想をつづけ、深く深く調べ続けた結果、その根本原因はある特定の感覚に起因することを発見しました。

 

 

苦しみの根本原因

 

人間は心や体にある特定の感覚が発生すると、その感覚に対して「好き」「嫌い」の感情を覚えます。

一般的には「好き」な事柄、「嫌い」な事柄に対して「好き」「嫌い」の感情を持つと考えられていますが、ブッダによるとそうではなく、それらの事柄に触れた時に湧き上がる感覚に対して「好き」「嫌い」の感情を持つそうです。

 

「好き」な感覚はずっと続いてほしいし、「嫌い」な感覚はすぐに無くなってほしい。

だけど、人生においては必ずしも思い通りにはなりません。

「好き」なものは離れていき、「嫌い」なものが近寄ってくる。

それが苦しみの始まりです。

 

そして、「好き」「嫌い」に対する執着の度合いが大きければ大きいほど、苦しみが増していきます。

逆に言うと、執着がなければ苦しみにはなりません。

「執着」=「苦しみ」の構図です。

 

 

ブッダの叡智

 


ここにブッダの叡智が入ってきます。

彼はヴィパッサナー瞑想の練習において、体に現れてくる感覚をただありのままに観察せよと言います。

それらの感覚は感覚として現れて、いずれは消え去っていきます。

どんな感覚においても永遠に存在し続ける感覚はありません。

 

自身の体を観察することで、「すべては現れては消えていく」という宇宙の真理を実体験を通して身をもって理解しろと言います。

 


「すべては現れては消えていく」のであれば、そこに対して執着する意味はない、どれだけ執着しようともすべては移り変わり続けているのだから。

ましてや執着が強ければ強いほど苦しみが増すのであれば、執着は無い方が良い。

 


その執着の発生源は、浮かんできた感覚に対する「好き」「嫌い」の感情に基づいています。

それらの感覚が最初に意識の表面に上ってきた時に、いずれはまた消えていくものだと認識しながら、ただありのままに観察することができると、執着を生み出さず、苦しみが訪れることもありません。

 

 

「苦しみの原因」と「苦しみと言う反応」の関係

 


苦しみの元になる感覚が存在していたとしても、その感覚をただの感覚として知覚し、「好き」「嫌い」の感情に執着しなければ、「苦しみの元になる感覚が存在しているから、自分は苦しんでいる」という構図から抜け出すことが可能になります。

苦しみの元になる感覚や、それらを取り巻く状況は何も変わらないかも知れません。

だけど、それらの感覚や状況があるからといって、必ずしも苦しみと言う反応を返す必要はないのです。

 


例えば空腹。

 

お腹が空いた時に食べ物に対して強い執着があれば、空腹であることに対して強い苦しみを感じます。

その後に食事をとるとしても、食事までの間に苦しみを感じます。


ですが、空腹というお腹の辺りに感じる感覚を、ただの感覚として観察することができれば、「自分はお腹の辺りに空腹の感覚を感じている」という認識と「苦しみ」を一緒くたにして空腹という現状に苦しむことはありません。

その後に食事をとるとしても、食事までの間に苦しみは感じず、ただ単に空腹という感覚を知覚しているだけの状態になります。

 

 

実践的な練習法

 


言うは易し行うは難しで、空腹を感じれば即座に苦しみと結びつけてしまうのが人の常です。

空腹ならなんとかできても、恋愛や親子関係などの深い人間関係になると、執着を持たずに一歩引いて体の感覚を観察するなど、簡単にできることではありません。

 


だから、そのための練習法がヴィパッサナー瞑想なのです。

浮かび上がってきた感覚をただありのままに感覚として観察する。

その観察を通して「感覚」と言うものは浮かび上がってきては消えていく一過性のものだと実体験を通して理解する。

日々ヴィパッサナー瞑想を練習しておくと、いざという時にすぐに体の感覚に気がつくことができるので、感覚に執着して苦しみに囚われるということが少なくなります。

 

 

まとめ無理やり

 

長々と書きましたが、ヴィパッサナー瞑想の真髄を無理やり一言でまとめるとこうなります。

「苦しみの根本原因は、ある感覚に対する執着だから、その感覚が現れたら反応せずに観察しろ」

 


簡潔にまとめてしまいましたが、この話は非常に深くてブログ記事一つ程度でまとめられるようなものではありません。

この手の話題は僕の大好物でもあるので、折を見てまた関連した記事を書きたいと思います。

 

 

ちなみに僕は仏教徒ではありません。

あえて宗派を挙げると、アニミズム世界に住むヒッピー瞑想者(キリスト推し)といったところでしょうか。

なんじゃそれってツッコミは無しでお願いします

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

 

僕の執筆活動は、こちらの【銀の購入代行】に支えられています。

銀行崩壊、ドル基軸通貨崩壊、経済崩壊に直面している今こそ貴金属備蓄が助けになる時代です。

ぜひこの機会にご利用ください。

 

 

普段はツイッターファイルを翻訳したり、We The Media 日本語版という独立系ニュースメディアのまとめを行ったりしています。

 

また、同志たちとともに日本向けの独立系ニュースメディアを立ち上げています。

 

最近は休筆中ですが、20年以上の旅の記録を綴った放浪記もライフワークの一つです。

こちらも併せてよろしくお願いします。

 

 

 

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