チベット行きのバス 僕たちは準備を整えてチベットへ向かうバスに乗り込んだ。 三日ほどゴルムドに
三日間の船酔いと、何も食べていない空腹で弱り切っていたが心は高揚していた。
意気揚々と上海の街へと繰り出す。
船酔いが収まり、とりあえず何かを食べたいので、レストランを探して歩いた。
食べ物っぽい文字を書いた看板がビルの2階に掲げてある。
中国やインドで何かあったら、もう二度と会えないかも知れないと言うことで、親戚にも挨拶回りをした。
幸いにも親戚一同の家は実家から自転車で行ける範囲なので、楽だった。
みんなもう二度と僕の顔を見れないかの様な対応。
深夜バイト勢のミュージシャン達も自分たちのやりたい事を形にしたいと思っていて、自主制作レーベルの立ち上げを検討していた。
そんな中、僕にもレーベルの立ち上げに参加しないかとの誘いがやって来た。
色々なタイプの毒素のある映画に反応してきたが、最も強く僕の人生観に影響を及ぼしたのは、現代に生きる退廃的で暴力的な若者をセンセーショナルに描いた映画だ。
”La Haine”(邦題、憎しみ)と言う映画に影響を受けてスキンヘッドに近い坊主頭にした。
僕の心の中の毒素はエホバの証人をやっていた12年間にかけて蓄積されたもので、そう簡単に出し切れるものでも無かったが、音楽や映画という出口を見つけた事で徐々に放出されていった。
住んでいる部屋の窓ガラスを全部アルミニウムホイルで覆って外の光を遮断し、部屋を映画鑑賞用に改造するほどの熱の入れようで、昼の光を浴びる健康的な生活よりも、映画を集中してみることのできる暗闇を優先していた。
兄との音楽ユニットのアイデアはどんどんと進化していき、反著作権主義の思想を込めて活動する、テープコラージュを使った実験音楽家という体裁になって行った。
実際には真剣な思想を持っていたわけではないが、そういう設定にすることを楽しんでいた。
Gさんはミュージシャンだけあって音楽に詳しく、彼の最も得意とする分野が、ジャーマン・プログレやクラウト・ロックなどとも呼ばれる70年代ドイツのアンダーグラウンドなサイケデリック・ロック・シーンだった。
タイ旅行、特に南の島でのノンビリした時間を経験したことで、もう少しゆったりした暮らしをしたいと考えるようになる。
パンガン島で出会った旅人たちは肩の力を抜いて気楽に過ごしていた。
彼らみたいにノホホンと暮らしたい、パンクス的思想だった僕にヒッピー的思想が混じり込んできた。
3週間のタイ旅行も無事に終わり、西成の一人暮らしのワンルームマンションへ帰ってきた。
旅行は無事だったが、無事ではなかったのが貯金だった。
ピザ屋のバイトで貯めた貯金は引っ越しの準備やタイ旅行の資金に消えた。
ここに住んでいない3週間の間も、家賃は払い続けている。
次の日、朝日と鳥たちの鳴き声で目が醒める。
山の朝の少し冷たい空気が気持ちいい。
部屋から出ると、すでに朝食が用意されていた。
食事を食べ、荷物をまとめ、出発の準備をする。
今日はいよいよ象に乗る日だ。
ガイドブックによると、このゲストハウスは山岳民族を象に乗って訪ねるという一泊二日のツアーをやっているらしい。
チェックインしながら、ゲストハウスの人にツアーの詳細を尋ねると、色々と写真を見せてくれた。
この時にゲストハウスにいた日本人と仲良くなった。
人と気軽に話して友達になるなど、日本ではあり得なかったので、これまた驚きだが、これがタイの魔法だろう。
彼は金髪のガタイのいい東大生で、自称ストリップ研究家だという。
道端の砂利の上に横になってどれくらいが経ったのだろうか?
しばらくの間眠りに落ちていたようだ。
夜は明けかけていて、空は白み始め、ジャングル中の鳥たちが合唱している。
僕たちがパンガン島に来たのは、何もビーチでのバカンスだけを求めて来たのではなかった。
もちろん言うまでもなく、ビーチバカンスを最高に楽しんだのだが、島に来た一番の目的は毎月満月の夜に開催されると言うフルムーン・パーティーに参加するためだった。
ビーチに滞在し始めて何日か経った頃に、もう一人の日本人の旅人がやって来た。
彼も『満月のタイミング』を狙ってやって来たらしい。
こちらのMさんも、かなり旅慣れているようで、今までに出会ったことのないタイプの人。
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